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おバカなプーたろう


2010年12月13日

寂しさと悲しみが押し寄せてくる

サーモン作りで忙しく体を動かしている・・のに、なにかのきっかけでとつぜん悲しみが押し寄せてくる。
  
そうでなくても、いつも胸の中に大きな塊がはまっているような、そんな感じがし続けているのだけれど、
その上に、ときどきガーンとやってくるのです。
 
  
たとえば、電卓を使おうと思ったらいつもの場所にない。
他の電卓も見当たらない。
えーーー、どうしてー??
そんな風な、困っちゃったときに、思い切り母のいないことがこたえるのです。
いたって、何にも解決につながるわけではないし、
電卓をいつも持って行っちゃう犯人は母だったし、でも今回数日前に使ったのを覚えているし、
 
えーー、どうしてないのー? 私ったらどこにおいちゃったのー? もう、私っていつもこうなんだからー。 ねえ、ばあばー。 どうしていなくなっちゃったのよー。
  
ってなっていく思考回路。
  
  
  

 
ばあばは、頼りだったし、癒しだったよー。
  
 
  
  
  
  
  
まだ一回も泣いていない。
涙は流したけれど泣いていない。 
  
「泣かなきゃだめよ」って言う人もいるけど、「母親」である私は泣けない。
ばあばも私の前で泣いたことはない。
KO(息子)もいるし、塩大臣もいるし、わたしは母だから泣けない。
まあ、全員、おいおいは泣いていないんだけどね。
  
ばあばはそういう人だったから、泣いちゃいけないと思うの。
でも、心の中はいつも泣いてるよ。
本当に悲しい、と同時に今でも現実を受け止められずにいる。
  
 
   
  
  
  
  
 
 

2010年12月10日

老境に入るとき

母の写真を探して、古いポケットを探っていたら、両親そろった写真が出てきた。
 

山梨、長坂の高橋名人の蕎麦屋「翁」でのワンショット。
数えてみると6年前(2004年)のものだった。
  
この頃、父はすこーし記憶が悪くなり出していて、夜中に寝ている人を確認して廻ったりしたものだった。
 

 
父は蕎麦が大好物だった。
物静かな人で、よくよく熟考してから、慎重に行動する、そういう人だった。
(私とぜんぜん違う・・・笑)
「 紳士 」といわれ、 「 『まじめ』が服を着て歩いている 」といわれる人だった。
  
  
  
  
  

一方の母はといえば、
やりたいことは何でもやる、やりこなす人だった。
  
私が小さいとき、ワイヤーへヤードフォックステリア(ローリー)を飼っていた。 そのテリアが死んだあと、三重県からワイヤーへヤードフォックステリアのメス(エル)の仔犬を迎え、仔犬を取ったことからプチブリーダーに目覚め、東京から血統の良いオス(ダニー)を迎えて、ダニーをグランドチャンピオンにした。
JKCの品評会に通ったものだった。
  
裁縫の腕はプロ級で、近くのデザイナーさんに頼まれて売り物の服を縫ったりもしていた。
昔、「クロネコのタンゴ」がはやったとき、皆川修さんと一緒に歌っていた女の子がテレビで母の縫った服を着ていたのを覚えている。 
  
ろうけつ染めに凝ったこともあった。 
 
料理も習いに行っていた。ケーキもいろいろ焼いてくれた。
 
飯田深雪のアートフラワーにも凝った。
結婚式のブーケなどお手の物だった。
  
生の花を分解して組み合わせるアートフラワーもやっていた。
  
木彫りにもずいぶんのめりこみ、今でも玄関の鏡や、居間の時計、ブックエンド、ろうそくたてなどなど作品がたくさん残っている。
  
織物も始めたらのめりこみ、北欧のカランコというのから始まって、ついには3畳の部屋いっぱいになる大きさの古い機織機を入手。
父や伯父は母の織ったツイードのブレザーを着ていた。
 
母の詳しい思い出はおいおい書いていこうと思うけれど(忘れないうちに・・・笑)。
  
  
  
  
  
  
 

  
翌2005年の1月の写真。
真ん中は父の上の姉で、このとき90歳。
もう3人とも向こう岸の住人となってしまったが、この写真を見ると、母が若い。
つやがあってぴんぴんしている感じ。
  
ここ数年でものすごく年をとって、とつぜん老人になってしまったのがよくわかった。
  
  
  
  
 
人間って、老境にはいるときがあるのだなあ。
寿命が近づくのがわかってくるのだなあ、と、そんな気がふとしたのだった。 
  
  
  
 
  
  
  
 
 
 

2010年12月8日

覚書

母の具合の悪くなったのは11月19日(金曜日)の夜だった。
 
「 なんだか変な気分がする。 脂汗が出た。 」 と言うのだ。
寒いのかと聞くと、寒くはないとの答え。
熱を測ると37度7分ほどあった。
風邪を引いたのだろうと思い、手持ちの抗生物質を飲んでもらった。
体がえらい(だるい)といって、二階の寝室に上がらず一階で寝たのはこの日からだったか、翌日からだったか記憶は定かではない。
  
  
 
翌土曜日は暗いうちから出かける約束がしてあった。
 
 
  
 
  

翌土曜日は暗いうちから出かける約束がしてあった。
母は行かないと言っていたので、以前母の世話をしてくれた人に問い合わせたが
この日は仕事が入っているとのことで、娘に頼んで私は出かけてしまった。
昼間娘に電話すると、『 ご飯は食べた。気分はよくないといっている。 』 とのこと。
晩御飯を済ませたら薬を飲ませてくれるよう頼んだ。
  
私は捨て猫のナゲットを拾って帰宅。
  
  
  

翌日曜はかかりつけの医者は休み。
熱を測っても平熱だったので、薬を飲んで自宅で養生。
夕方、背中が痛いと訴える。
  
 
 
 
月曜はデイサービスは休んで、家で寝ていた。
かかりつけ医は要予約なので、午前中に予約を取り、夕方診察に。
熱はなし。のどもはれていない。血圧は低め。金曜からの様子を伝える。
本人はノドがちょっと変だと訴えた。
風邪を引いたのでしょう、と、漢方の風邪薬とのどの薬を処方される。
  
 
 
火曜日は祭日。
私は一日中仕事。
母は一日中ベッドに横になっていた。
食欲はあまり無い。
  
  
水曜日、朝、羽毛布団が足元にずれてしまっていて、毛布だけかぶってがたがた震えているのを発見。
体が冷え切ってしまっていた。
あわてて風呂を沸かして、温めた。
ひとりで家に置いておいたら何も食べそうに無かったので、デイサービスに行くよう説得。
デイサービス先にはすぐに出られなかったら家の中まで迎えに入ってくれるよう頼んで玄関を開けたまま仕事に。
ところが昼に電話すると、玄関に座って待っていたとのことで
「 体が冷え切ってしまっていて元気が無い。 血圧も異常に低い。
  迎えに来て欲しい。 」
仕事を早退して迎えに行った。
  
ベッドで横になっていた母は、意外に元気で血色もよく、思い切り汗をかいていた。
車に乗ってすぐに、急にひきつけたように 「 落ちる、落ちる! 」 と叫んだ。
右に傾いているのに、「 引っ張って! 」と、さらに右に引っ張る。
平衡感覚が狂っているらしかったが、抱きかかえるとすぐにおさまった。
  
そのまま医者に向かい、月曜からの様子を伝える。
熱はなし。血圧は低い。
「 何とも無い。 なんだろうなあ。 風邪の治りかけでしょう。 」 と、
頭痛を訴える母に鎮痛剤の処方だけされた。
 
体がつらいと言う母を乗せて薬をもらうのも何なのでそのまま帰宅。
ご飯は少ししか食べなかった。
好物のイチゴミルクは食べる。
  
  
  
  
 
木曜は水曜午後から本当につらそうだったので自宅において、お隣の奥さんにときどき除いてくださるように頼んで仕事に。
出かけてから息子が休みだとわかり、息子に見てもらっていたが、
午後のどの渇きを訴えて台所に行ってひっくり返ったそうだ。
午後3時前に帰宅して、イチゴミルクを食べさせた。
しばらく観察していると、どうも息が苦しそうにみえる。
熱を測るとまた、37度7分。
肺炎を起こしているか・・・と考えた。
かかりつけ医は木曜なので休診。 消防に電話して、木曜やっている医者を問い合わせ。
近くの、すぐ検査する総合病院が開いているとわかった。
だるそうだがその病院へ行く。車椅子を借りて待合室で待つ。
やっと診察になったのが17時ごろ。 すぐにレントゲンを撮り、肺炎を起こしているが、心臓が肥大していて胸に水が溜まっていると言われる。
さらに胸部腹部のCTを撮る。
心臓の血液の流れが私が見てもおかしいように思えた。
  
肺炎ですからすぐ入院、といわれて病室へ。
母を寝かせる。 酸素マスクを装着。
心電図をとりにくるがとても苦しそうにしていてなかなか測れない。
パジャマなどをとりに帰るように言われて帰宅。午後6時。
  
ナゲットを獣医に連れて行く予定だったので、息子に荷物を頼んで「一時間後に病院に行く」と伝えてもらうよう頼んだ。
でも、家をでようとしたら携帯の着信。
すぐに病院に来るようにとのこと。
病院に着くと、『 心筋梗塞を起こしているのですぐに転院が必要。 』とのこと。
救急車を手配して、市民病院の救急外来に話をつける。
救急車が来るのに時間がかかる。
母はトイレに行きたいと言うが、点滴をしているので無理。
救急車がやっと来たのが30分後くらいだったろうか。とても苦しそう。
救急車に運ばれる。
私は帰りのことがあるので車で行かせてもらう。
  
救急車はなかなか来ない。
 
市民病院の手前でやっと追い越していった。
  
  
病院について救急外来の入り口に駆けつける。
母は処置室に入っている。
  
救急隊員から説明を受ける。
病院に着いたときには心停止、呼吸停止状態。
これからカテーテル手術をするがかなり厳しい状態。
  
  
夜9時。
カテーテル手術が終わる。
意識が戻った。
脳の損傷はなかった。 しかし、心臓の下半分にまったく血が行かず心臓の中隔が欠損している。このままでは心臓は一週間持たない。手術が必要。左右の心室の間の壁にパッチを当てる手術。
お願いするしかない。
  
心臓外科の手術室に移って夜中の12時に手術が始まった。
  
手術は朝の8時までかかった。
パッチは当たったが、心臓の下半分の損傷が激しく出血が止まらない。
  
9時過ぎ、母は心臓手術のために顔が浮腫んでまん丸の顔になっていた。
機械につながれた状態(人工心肺装置)。
ペースメーカーをとめると、心臓は上半分が弱くしか動かない。
輸血をしているので血圧もあるが、輸血をとめたら心臓もおそらくすぐ止まる状態。
  
今の一本で輸血は終わらせてもらうようお願いする。
 
 
父のときに、管でつながれていることを激しく嫌った母だから。
  
  
  
  
  
  
  
 
 
 
 
午前10時20分、最後の輸血が終了した。
ペースメーカーも停める。 
 
それから20分、
母の心臓は小さく小さく動き続けて、ついに止まった。
  
 
前日の18時過ぎには会話も出来た。
21時には意識があった。
でも逝ってしまった。
  
  
  
信じられなかったよ。
嘘だと思った。
夢の中にいるみたいだった。
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 
 

 
ありがとうね。ばあば。
私の母でいてくれてありがとう。いつも一緒にいてくれてありがとう。
 
大好きだったよ。
本当に大好きだったよ。
頼りにしていた。
ありがとう。
もっともっと一緒にいたかった。でも、苦しむのはいやだね。
さばさばしていて、良いところだけ見ている本当に良いお母さんだったよ。
ありがとう。
ありがとう。
  
  
  
 
  
  
  
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

2010年12月6日

朝はとても寒くなってきたよ


  
ばあば、寒さなんて平気になってしまいましたか??
  
今朝はとても寒かったのですよ。
  
 
  
 
  
引地川の上の電線には冬の便りと共にユリカモメが現れました。
  
今週からスモークサーモン作りです。
  
  
  
  
  
  
  
 
 
 

2010年12月5日

母親って

 
ばあばに逝かれてしまって、息子や娘もいるのに、WANSもしっぽちゃんたちもいるのに、
 
『 みなしごハッチ 』になってしまった気分です。
  
  
  
胸にぽっかり穴があいてしまっていて、其処がいつも疼きます。
  
  
  
 
  
 
  
  
母親って、そんな存在なのですね。
  
  
  
  
  
   

2010年12月4日

サーバー直ったみたいです

よかったー。
 
 
 
 
  

護られている


 
昨日(金曜日)の雨はひどかったね。
あんなに激しい雨は久しぶりに見た気がする。
道路が冠水して交通はあちこちで寸断され、先生方も学校に来るのに苦労していた。
鎌倉ではバス停が倒れ、シャッターが飛んでいたそうだ。
  
  
先週の金曜の朝、母は逝ってしまったのだった。
夜中の雨も止んで青空の金曜だった。
 
  
父が亡くなったのは土曜日だった。
満月が出ていたな。
 
二人とも娘の仕事の日程を考えてくれていたみたいな・・・と、昨日事務の人に言われた。
  
そういえば、一昨日銀行の用を済ませたらバイクに駐車違反のシールを張っているところだった。
「 自分ではがして。 交差点だから気をつけてね。 」
あれー、見のがしの無い人たちなのにどうしたのかなー、許してくれちゃった。
  
  
昨日は学校の帰りにとつぜん左の細い道から市のごみ収集車が飛び出してきた。
何とか急ブレーキで寸前で停止。
「 すみませんー、ごめんなさいー。 」
( こら! ごめんなさいで済むことか! ) と思ったけど、こちらはエンストしてなかなかエンジンがかからない。
さすがに、あまりにひどいと思ったんだろう、収集車は私の後ろに止まって、運転手が降りてきて 「 ごめんなさい、何とも無いですか?? 」 って聞きに来た。
  
  
  
護られている気がするよ。
  
 
  
  
 
 
 
 

 

2010年12月2日

みんな、ありがとう


  
たくさんの励ましの言葉、ありがとう。
  
一人一人お返事したいけれど、今は、まだ、お返事を書くと泣いてしまうのでごめんなさい。
  
 
  
母がいなくなって、なんだか独りぼっちになってしまったような悲しい寂しい気持ちの中にいる私。
皆さんのコメントで、いっぱい慰められています。
ありがとう。
ありがとう。
  
  
  
  
 
  
  
  

 
 
( サーバーの調子は悪いままなので、もし、とつぜんストップしたときはエキサイトブログの「おバカなプーたろう」に飛んで下さいね。 )
 
 
 
 
 
 
 
 

三重からおばが来てくれた

母の葬儀に、母のたった一人の兄である亀山の伯父の代理で、おばが来てくれた。
  
おばはもともと神奈川(横須賀)出身。
それでも、もう、横須賀には誰も残っていないのだそうだが・・
80歳なのに、わざわざ三重県から来てくださった。
  
 
 
私が前に会ったのは40年以上前。
  

 
 
お互いに年をとってしまったけれど、どうぞ長生きしてくださいね。
  
  
  
  
  
  
 

2010年12月1日

江の島花火大会


江の島の花火大会が、この夏はサミットの影響で中止になるところだった。
中止ではあまりに地元の観光産業に影響があるということになったのだろうか、
夏にはいつもの半分くらい(?)の花火を揚げた。
  
その代わりの花火大会が27日にあったのだった。
  
ばあばが亡くなった翌日。
28日が友引だったので、28日通夜、29日告別式という日程だった。
ぱらぱらと訪れる弔問の友人達と、最初は2階で何か崩れた音だと思った。
しばらくして、「 そういえば花火大会?? 」って気付いた。
  
 
  
ノエルをトイレに出すために2階のテラスに出たとき、大きな花火が揚がった。
  

 
「 ばあば、花火・・・  」
つい呼んでいる私がいた。
  
  
  
 
  
  
  
  
  
  
  
  
夏の花火は家からは見えにくい。
冬でもスターマインみたいな低い花火は見えない。
  
偶然、最後の大きな花火が見えたのだった。
  

 
花火が涙でかすんだ。