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おバカなプーたろう


2013年11月9日

古い写真から

家を建てる地鎮祭に来た時の写真。

パンツが見えているのは、「カワイイ~」と言って下さい。

 

建った家の門で、飼い始めたワイヤーのローリーと。

 

大人になったローリー。 まだこのころ、両親はトリミングが下手だった。

 

最初に建てた家の居間で。

4歳か5歳。

私は今、この写真のばあばの年齢の2倍だ。
   

   

   

   

   

 

2013年6月2日

6月1日といえば

昨日は久しぶりの土曜日の解禁日。
さぞ混んでいるだろうと思ったら、松田あたりの酒匂川は空いていた。
川の水があまり良くないらしい。

 

山北に近い岩流瀬橋の下はそれでも何人もの釣り師でにぎわっていた。

 

 

生きていれば一昨昨日の5月29日に90歳になっていたじいじ。
亡くなる数年前から釣りもできなくなっていたけれど、アユ釣りが大好きだった。

相模川沿いの磯部という集落に育ち、
子供の時から、アユやウナギ、ナマズやハヤを採って育った。
自分の生い立ちについて話すことはほとんどなかったが、酔っぱらった時に数回聞いた。

あまり裕福な生活ではなかった(父親が親戚の借金にハンコを押していたため)が、
体が弱かった母親のために魚を捕ったり、
アンゴラウサギを飼って毛を売って文房具を買ったりしたらしい。
勉強が大好きで、「百姓の倅に勉強は要らん」と言われて、蔵の二階に隠れて勉強したそうだ。
字がうまくて、正月に凧を作るとき、部落中の子供たちに、「みのちゃん、俺にも字を書いてくれよぅ」とせがまれたと言っていた。
旧制厚木中学の試験を受けて5番以内の成績で受かったが、家計を考えて断った。
校長から、うちの養子にと言われたがそれも断って、神奈川師範学校に行った。
一番上の姉が、父親に、「實(じいじ)に勉強させてくれ」と頼んでくれたのだと言っていた。
(その姉には頭が上がらなかった。)
師範学校を出てから東京文理科大学(現筑波大学)に行った。
旧制中学を出て受験する学生より一つ年上になる。しかも、英語の授業が圧倒的に少なかったそうだ。だから、英語は苦手だったらしい。
試験会場で伯父(ばあばのお兄さん)と同じ部屋だった。
初対面の叔父に、
「その本、なんという本ですか? ちょっと見せてくれませんか?」と言って、英語の本を借りて、試験時間になるまで返してくれなかった、と伯父が言っていた。

私が生まれてすぐに、こちらの大学に赴任し、ずっとそこで教鞭をとった。
大学の創立記念日が6月1日だったので、1日は毎年鮎釣りに行っていた。

私もじいじに連れられてよくあゆ釣りに行った。
中学は付属中学だったから当然同じ日が休み。3年間解禁日は川で迎えた。
今風のクーラーボックスなどなくて、ブリキカバーの付いた大きなガラス製のジャーを持って行っていた。
当時じいじは、毛バリを使う「どぶ釣り」と、2本バリをたくさんつけてひっかけて釣る「コロガシ」をやっていた。
私は「どぶ釣り」。
一度だけ、相模川の採石後の窪地で入れ食いになったことがあった。その時は二人とも「どぶ釣り」の仕掛けで、父の魚を私が外してジャーに入れている間に父が私の竿を振ったところがまた釣れてしまい、しばらくは、じいじ=釣る人、私=外す人になってへこんだ。
ジャーからアユがあふれて、ふたにまで入れる始末。
そこへサイレンが鳴り渡って、ダムの放流の知らせで、後ろ髪をひかれながら川を後にした。
週末父が行ってみたところ、放流で川底が変わってしまって、窪みはなくなっていたそうだった。

始めは相模川が多かったのだが、小学校中学年からは酒匂川になった。
松田の橋の少し上が定位置だった。
工場のすぐ下に農業用水路が入っていて、その出口でいつも釣った。
解禁を少し過ぎると、川の横の田んぼに蛍が無数に出て、「釣り」→「蛍」という二重の楽しみが出来た。

大人になり、子供たちを連れてキャンプに行くようになったとき、西丹沢に行く裏道を探していたら、当時通った道に入って、ちゃんと覚えていておかしかった。
その裏道、今でもよく使っている。

3年前に砂金掘りを始めた時に、地図で見たら、当時父と釣っていた場所のちょうど10キロ上流で砂金を掘っていた。
砂をふるいながら、一人で頭の中の父と会話したものだった。
そのころ父は肺炎を起こして入院していたのだった。

 

 

今でも、酒匂川と言えば私の中では「鮎」。
岩流瀬(がらせ)橋にはアユのモニュメントがある。

「岩流瀬」の字をネットで調べたら、これがなんだかわからず、
「鮎ならもっと鮎らしくしろ」とまで書いている人もいた。

私には慣れ親しんだ形で、どう見ても鮎にしか見えないけれど、そうなんだ・・・

 

 

 

 

 

 

2013年3月14日

塩大臣、卒検合格

塩大臣が教習所の卒検に合格した。 マニュアルの免許。
70点!
( 合格ラインが70点。 ギリギリ。 )

 

仮免の実技も75点だった。

 

 

何はともあれ、予定の講習を一つも落とさずに2月23日に入校して3月13日に卒業。
一切の追加料金なしで、そこは偉かったね。
19日間!
正規の料金に加えて¥31500余計に払って、フリープランという、卒検までの予定を全部組んでもらうコースをとった。
この時期、合宿講習を調べてもどこも料金が上がっていて変わらなかったのだもの。
理科系の大学生はなかなか時間が取れないのだ。

筆記テストはすべて100点だったらしい。
教官に「それも珍しい」と言われたとか。

 

 

明日、二俣川に行ってくる。 まさか落ちたりはしないだろう。

さて、しばらく鵠沼の道路は怖いぞ。

 

 

 

 

 

 

 

2013年1月15日

大雪の成人式

塩大臣の成人式。

 

天気予報が大当たりで9時過ぎから大粒の牡丹雪が降り始め、あっという間に積もってしまいました。
「 雨より雪のほうがきものがぬれないから 昼ごろから雪に変わるなんていいわね。 」
などと言っていたのですが、とんでもない。
草履で歩くなんてできない相談の積雪量です。
おまけに風も強く、玄関のドアが開かなかったり、開けたら閉まらなかったり・・・

 

美容院の予約が10時だったのですが、迎えに行った12時にはどこもかしこも真っ白で
道路はひどい渋滞。
2時間で思い切り積もりました。

 
 

一回家に帰ってから出直すつもりでしたが、市民会館の周りをちょっと見てから、と思ったらまだロータリーに入れそう・・・受け付けの時間までもう少しだからこのまま行ってしまえ!
と、屋根のあるところで下すことができました。

 
 


           (左の女の子は草履に足袋、右のお母さんと一緒の女の子は白い長靴)

 

雪が降ると降った雪が堤防になってしまうので道路わきにはものすごく大きな池があちこちにできてしまいます。
塩大臣を下してから、戻る時、
晴れ着でその水たまりをじゃぶじゃぶ歩く女の子たちとすれ違いました。
他に歩くところがないのです。
中には賢くブーツやスニーカーで歩いている子たちもいました。
でも、着物はびしょびしょです。
せっかくセットした髪の毛も風に崩されています。

 

一時はかさが壊れるほどの風が吹きました。
自分の着物で来ている子は大変だったでしょうね。
貸衣装はその点、気にしなくていいかも。

 
 

塩大臣、ラッキーなことに迎えに行くときも、ロータリーに入れたので全く傘いらず。
写真館も前の道路が歩行者天国だったのですが、この天気でみんな車で入っているということで写真館の前に車を止めることができました。
美容院のドアと車の間、車と写真館のドアの間でふきつけた雪以外に濡れることなく一日を過ごすことができました。

 

いやー、しかし、女の子の成人式は大変だ~。
つかれたよ。

   

2012年10月31日

全く!

長息子が電話してきて、
「 車が壊れた! 」

しょうがない、夜中に迎えにいった。

車はエンジンが割れたそうだ(本当に)。
原因は整備不良。

おかげで夕べは時間が無くなった。

全く! 何歳になるんだ??
親の顔がみたい・・・

2012年9月15日

塩大臣、初マネキン

塩大臣、人生初のアルバイトに行っています。

普段はぷーままの塾を手伝ってアルバイト料を稼いでいるので、家以外からの収入を得るのは初めてです。

マネキンって、職業安定法施行規則によると、「専門的な商品知識及び宣伝技能を有し、店頭、展示会等において相対する顧客の購買意欲をそそり、販売の促進に資するために各種商品の説明、実演等の宣伝の業務(この業務に付随した販売の業務を含む。)を行う者」 で、
ウィキペディアの言うところの、「マネキン紹介所」から斡旋を受け、スーパーマーケットやデパ地下などで試食販売や実演販売に従事する販売員のこともマネキンと呼ぶ。」 こちらのほうですね。

お友達の紹介で始めましたが、ぷーままも大学生のとき、家庭教師とマネキンで、山に行く費用と山道具を買う費用をまかなっていました。
家庭教師は安いもので、ほとんどマネキンだったなあ。
まずはばあばに現金を借りてものを買ってしまい、あとから返したっけ。
ずいぶん長いこと、借金の返済帳をとってあったのだけれど、いつの間にかなくなってしまいました。
何をいくらで買ったかわかって面白かったのに・・・

横浜の三越デパートの和装小物の売り場に派遣されたときは困ったなあ。
だって、着物のことなんて何にも知らないんだもの。

今日、塩大臣は新しいマーガリンの試食販売らしいです。

こんな感じでやってるかなー。
ぷーままは、初めて売ったのはちくわでした。
疲れて帰ってくるだろうなあ。

2012年4月2日

みんな大学生

土曜日に、塩大臣とその仲間たちと全員が大学生になったお祝い@ひなの。
(去年は、お祝いと残念会を焼肉屋でやった)
はなパパちゃん主催。
塩大臣、daisuke、youyou、momo、saeの5人。
2人が新大学生ね。

はなママ、ぷーまま、息KOも参加。

momoは自分の車で来た!

有機野菜のバイキング食べ放題のひなの。

このお皿は新しい。分けられて便利!!

おかわりして、もっともっと食べた。

う~~、満腹。

2012年3月8日

息KOのお弁当

先月の写真なんだけどね。

都合が付かなくて息KOが晩御飯を作ってくれた。 その深夜、台所に行ったらきれいにお弁当が作ってあった。
( 普段はぷーままが作っているよ。 )

右の小さい入れ物には、バジルを利かせたパスタ。

おかずはというと・・・

手前は市販の冷凍のメンチカツ。
向こう側は、酸味を利かせた玉ねぎとピーマン、ニンジンの炒め煮。
 ( 味見したけど、とても美味しかった。 )

いやー、お嫁にいけるね。

2012年2月21日

緊急事態

昨日は、夕方突然息KOから電話があり、
「 お袋、今晩仕事? 」
『 火曜は空いています。 』
「 今から帰るから、病院に連れて行ってくれる? 家までは帰るけど、運転する気になれない。
38度8分あって、だるい。 」

ひぇーー!!
インフルエンザ???

塩大臣の本番、土曜だよー!!!

 

 

 
それから、隔離の手段を考えた。
塩大臣と息KOの部屋は2階の廊下の突き当たりの1枚のドアの向こう、左右に分かれて短い廊下こそあるが入り口にドアがなくカーテン2枚で隔てられているのだ。
いかん。
本当は、塩大臣を他に移動したいところだけれど、受験前の追い込み、その他、いろいろある時期に移動は無理だろうなあ。 ・・というので、年寄りの部屋だった1階食堂横の部屋を片付けて、塩大臣が1階に来るときだけマスク、消毒、という態勢を整えた。

折りたたみの電動ベッドを広げたところが、ひざの部分が曲がってしまうというアクシデントもあり、晩御飯の用意もできず・・・
その後、息KO帰宅するも、6時半ではやっている病院が限られて、昔行っていた遠くの病院まで行くことに。

結局、「 38.8度 」は、私の聞き間違いで、「 37.8度 」。 夕べはインフルエンザの反応は出ず、今朝の体温が高ければ・・ということに。
夕べは、10時に部屋に戻ってPCの前に座ったが、頭痛がしてきて、気持ちも悪く、結局寝てしまった。

頭痛なんて久しぶりだったから、ちょっとあせった。
なんといってもうちの学校は、今、インフルエンザが猛威を振るっていて、先生も3人。クラスは6クラス閉鎖中。
今年から出ている強力な薬のせいで、まだ感染力を持っているのに熱が下がってしまうので登校してしまう子供が多いのが原因らしい。
文科省は、4月からインフルエンザの子供は5日間の出席停止と決めたらしいが、何で4月からなんだ??? 夕べ医者が「 文科省が馬鹿だから、みんなかかるまで終わらない状態だ。 」と吐き捨てていた。 医師会から来る情報で、インフルエンサ患者の数よりも、欠席者の数の方が少ない学校がたくさんあるそうだ!

さて、これから1階に下りて、息KOの熱を測ってきます。
低いとうれしいなあ。
(まだ、インフルエンザの薬飲んでないですから)

 

 

 

 

 

2012年2月9日

母としては一安心

塩大臣、とりあえず滑り止めは確保。
(去年は、国立一校しか受験しなかったからね。)
大学生になれることは確定した。

さあ!
あとは、27日の国立試験日の頑張りにかかっている。

まだ二週間以上あるぞ。
必死に勉強してねー。