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おバカなプーたろう


2011年8月15日

古い写真から・・朝日連峰 @山形 ’76.6.10~13

はやぶさ半さんが朝日連峰主峰大朝日岳を日帰り登山してきた。
すっごーい。

 

30年以上前にぷーままは大朝日岳まで2日かけて登ったのだよ。

あまりいい写真ではないけれど、ちょっと載せてみます。

 

 

 

上は山形駅からサクランボで有名な寒河江を通って終点左沢までの左沢線の左沢駅。
左沢は「あてらざわ」と読む。

きっと今はもっと違う駅舎だろうね。

そこからタクシーで登山口まで行った。

Marikoと女2人。
「 この時期に女2人って珍しいねぇー。ま、お宅らくらいあれば安心だろうけど・・。」
タクシーの運転手に言われた。
「お宅ら」は身長164cmと165cm。
まあ、大女だね。(今は縮んだ。)

 

 

タムシバが咲き、カタクリが咲き、ミズバショウが咲く登山道をひたすら登った。
展望が開けず、「何合目」かを知らせる道標が却って頂上までの遠さを知らせてイヤになる。

 


やっと開けた小さなピークが鳥原山で、池塘(高層湿原の池)に囲まれた鳥原小屋で一泊目。(真ん中に鳥原小屋が写っている)

 

 


白い泡はシュレーゲルアオガエルの卵。

 


ミツガシワの白い花が風に揺れていた。

 

 

 

当時山登りにはマイクロニッコールと言う35mmのレンズを付けて行っていたので景色を撮るとなるとどうしてもつぎはぎ。
そして写真をきれいに撮ると言う意識もなかったし、安い焼付けのせいもあるのか、スライドにした写真はまだしも、サービス版はひどくなってしまった。フィルムが大丈夫なうちにもっと早く何とかしておけばよかった・・・。
だいたい、カラープリントはやっと高校3年生のときに使った、というくらいだから、この時使用経験はやっと4年。プリント代が高くてあまりお試しできなかったし。
まあ、記録的な意味合いで撮っていた写真だからひどいのも当たり前か・・・。

写真の出来には目をつぶって下さい。

 

 

 

二日目、これから登っていく大朝日岳方面を見る。

 

このあと雨が降ったり、霧が出たり。
大きな雪渓の上で霧に巻かれた時は実は真剣に怖かった。
ホワイトアウト。
踏み跡もないし、迷う可能性大だった。
偶然、ほんとうに偶然雪渓を登りきったところが登山道だったので迷わずにすんだ。

 

大朝日の小屋はトイレが小屋の中にある、南アルプスのトイレに慣れた私には驚きの小屋だった。

 

 

 

3日目、やっと晴れて振り返った大朝日岳と大朝日小屋。

 

 

金玉水付近を歩くMariko。

 

一年後輩のMarikoは登山サークルのリーダーもしていて、なかなかの豪傑。
何回声をかけても返事がないので大声で呼ぶと、
「 あ!  ごめんなさい。寝てた。」
歩きながら寝るのだ!

大きな山をやるときは、頼もしい相棒だった。

歩くのが遅い私とMarikoは待ち合わせポイントを決めてそれぞれ勝手に歩くことにしていた。

 

 

 


東北の山のお花畑は聞きしに勝る美しさで感激。


この大きな以東岳を越えて大鳥池まで下る。

 

 

(ここからポジフィルム)


大鳥池はクマの毛皮を広げた形。

 

 

けっこう歩いても元気な相棒。

(雪渓の上で元気なポーズを取っている。クリックしてみてね。)

 

 

大鳥池のほとりの小屋につくと山菜採りの人たちがいた。

山奥まで酒を担いで登ってきて、山菜を採り、夜それをつまみに飲むのを楽しみに毎年来るらしい。

宴会に参加させてもらい(若い女は得だねえ)、 翌日は車で駅まで送ってくれることに(全く・・)。

 

 


翌朝、小屋の前で記念撮影。(古い写真だから顔を隠さなくてもお許しいただけるかと)
大学生の男の子2人も成り行き上一緒に乗せて貰えることに(笑)。
赤シャツのSさんー酒田市在住ーには、この翌年、鳥海山も案内していただいた。
うっかり住所とかなくしてしまって、今は連絡が取れない。
Sさんのジープに乗って、四駆の楽しさを知ったと言うのに。

 

下山後の大鳥池から一般道までがすごい道だった。
川に渡る橋がないところが何箇所も。


倒れた大木にロープをかけ、足場を掘って橋の代わり。

 

鶴岡の町まで出るのに一日がかり。
いやー、東北の山は深いね。

もっといきたかったなー、他の山も。

 

 

 

 

 

 

2011年1月20日

北岳山荘 第一号宿泊者

↓のエントリーの今朝光さんの新聞と同じ日にぷーままも新聞に載った。

昭和53年(1978年)7月2日の山梨日日新聞ですよ。


↑ここのところ。

 

 

 

 


おほほ。「さくら」ですけどね。

 

 

 

 

大好きな「私の北岳」に、残念ながらこのあと、あまり行く機会はなくなった。
この後、3回しか登っていない。

 

 

 

 

 

 

2011年1月19日

北岳の主 逝く

今日、一枚のはがきが届いた。

「 寒中お見舞い申し上げます 」 で始まるそのはがきには、ぷーままが青春を過ごした北岳の稜線小屋の主、深沢今朝光(けさみつ)さんの去年の逝去が記されていた。

 

 

 

 

稜線小屋には三人の親父さんがいた。
今朝光さん、富盛さん、丑雄さん。
富盛さんと丑雄さんは、もう数年前に鬼籍に入られた。
今朝光さんが逝かれて、ああ・・・確かに一つの時代が終わったのだね。

 

 

今朝光さんは、登山がブームになどなる前から北岳に登り、登山道を整備し、山小屋を作った。
沢山の遭難者を救助し、沢山の登山者に思い出を作った。

稜線小屋は山梨県の持ち物だった。親父さんたちが入札して借り受けているのだと当時聞いた。
昭和53年(1978年)6月、稜線小屋は山小屋としての営業を終え、北岳山荘にその役目を渡した。
今朝光さんは北岳に残り、山荘の一従業員となった。
その後も、北岳にシベリアなどに分布するヒメヤナギランを発見し、この写真では「富士山に笠雲がかかり,同時にその東につるし雲が存在しているのは極めてめずらしい 」と写真家をうならせた。

 

 

 

北岳山荘オープン前夜、芦安音頭を歌う今朝光さん。当時44歳。

 

 

 

 

合掌。

 

 

 

 

 

 

 

 

2011年1月6日

正月合宿

>>

もう31年も昔の正月の山の写真。(今回の写真は同行のMさんとNさんによるもの)
何年前かを計算するとため息が出るね。

このころぷーままは、銀座に拠点を置く労働者山岳会所属の山の会に入っていた。
精鋭たちは岩や沢を登り、冬の岩壁を登っていた。

 

ピンボケの写真だけど、出発点をちょっといったところ。
立山黒部アルペンルートの出発点(長野県側)の扇沢夏場はここからアルプスをくりぬいたトンネルを走るトロリーバスが出発する。
私達は、その、くりぬかれた北アルプスの山に登るのだ。

 

山の会では、一日早く精鋭が針の木雪渓を攻めて稜線をたどっている。
私達は初心者を含み、分散した精鋭をバックアップ出来るグループだ。
何かあったときは、二手に分かれ、ベテランがサポートに行ってしまう。
だからテントも二張り。

この日は黒部ダムを臨む稜線まで登ったんだと思う。(記憶が・・・)

 

雪がしまっていることを望んだ。ラッセルが続くと、稜線に何時につくかわからないことになる。


(長い赤いザックを背負っているスカイブルーのヤッケがぷーまま)
幸い、雪は深くても腰辺りまでで、予定通り稜線に近づいた。

稜線は風が吹きすさぶので、稜線を一段下がったところにテントを張る。
なだれないところを探すのにけっこう経験を必要とする。
特にここらへんの稜線は強風時に雪庇(せっぴ・・・雪のひさし)がでて、それこそ踏み抜いたら命がない。
どこまでが稜線でどこからが雪庇なのかを見抜かなくてはならない。

 

 

この写真は翌朝のテント撤収のときのものだが、こういう、風邪を防ぎなおかつ安全な場所にテントを張るのだ。

今のテントとは形式が違い、冬用のテントは中にもう一枚内張りというのを張って、寒さを少しでも防ぎ、なおかつ結露を防ぐ。
それでも夜中に寝ているみんなの息がテントで凍り付いてシュラフの上に降って来る。
朝起きるとみんな真っ白になっている。

 

 

左のブルーのテントはぷーままの私物。
カモシカスポーツの名品「エスパース」だよ。
汗臭い、煙臭いテントは大嫌い。なので、自分のテントを買った。毎回家に帰ると洗って干す。だから臭くないのだー。

 

 

 

テントの上の斜面に穴があいているけれど、ここは前日、テントを張っているときに突然崩れて人が現れたところ。
いやー驚いた。
突然目の前に人が現れるって、ほんとうに背筋がぞーっとした。
実は、数日前からここに雪洞を掘っていた人たちがいたのだね。
普通は、上から人に踏み抜かれないようにピッケルだのスキーだのを挿してそこに人がいることを知らせるんだけれど、彼らはやっていなかったのだ。
私達がテントを張る音に気付いて、あわてて外にでてきた、というわけ。
危機一髪だったね。

 

雪の中では音が吸い取られてしまって聞こえないことが多いのだから。

雪洞は、重いテントを持たないですむし、テントよりずっと暖かいので、慣れた人はとてもいいらしい

 

 

翌朝、テントを撤収して稜線に登る。
けっこうな斜面だ。

朝日の差す稜線を歩くのは気持ちいいけれど、何せ寒い。
足の指先や、手の先が冷たいを通り過ぎて、痛い。
登山靴の中で足の指の運動をする。


この手前の右側が雪庇になっている。
端を歩いたら踏み抜いて黒部湖に落ちていく。

 

 


この小屋で他の2パーティと合流する予定。

この夜、新人のO君のご飯の炊き方レクチャーが有って面白かった。
なかなかの方法で、私は今でも鍋でご飯を炊くときにその方法を使っている。

 

無事他のパーティと合流できて、翌日は爺が岳、鹿島槍が岳、と登頂する。

 

 

3パーティ合流したからすごい人数になった。

 

下山ルートは爺が岳の南尾根。

 

下り口はあっていたはずだ。
下るうちに降り出した霙(みぞれ)と、、雪の深さと、霧も手伝って、ルートを難しくした。
おそらく半分下ったくらいでコースを外れた。

やぶこぎ、がけくだり、シリセード、いろいろやりながらやっと下った。
途中雨になるほど気温が高くなった。
樹林帯を下ったのは正解だった。
苦労はしたけれど、雪崩の危険がない。

 

 

扇沢に着いたときはみんなびしょぬれだった。

 

 

 

 

 

(写っている中のお二人は、それぞれ数年後に山の単独行で亡くなられた。単独行は危ない。)

2010年8月27日

古い写真から・・・北横岳  3

足元に広がる雪の斜面以外に目に入るのは、
モノトーンの氷をまとった木々と、雪面とのさかいめのわからない空ばかり。
しかも、そんなに遠くない樹木の向こう側が、白と灰色スプレーで消されている。

 


通称「えびのしっぽ」。吹き付ける風に霧が凍って枝に張り付くのだ。
風上に向かって、エビの尻尾型に氷が生える。
木々は、このしっぽで覆われてモノトーンに変わる。

エビの尻尾ができているということは、気温が低く、風が強かったということだ。

 

この時点で、内心かなりあせっていた。
こんな斜面で、しかも、さらさら流れる雪の中ではツエルトだってうまく張れないじゃないの。

 

完璧にルートを外れている確信はあった。

 

 

 

 

ただ、後でわかったことだが、この斜面は、あせっていても登れたのだ。

 

 

登山ルートの両側には、とんでもない急斜面や岸壁や、ましてや滝など一つもなかった。

 

 

 

枝を掴み、岩(?)を掴み、足以上に腕を使って40分くらい登っただろうか。

とつぜんここにポンと出た。

 

 

 

道標が見えたときのうれしかったこと。

驚いたことに、目指していた尾根道の到着点にピッタリ出たのだった。

もう、あとは楽チン楽チンの尾根道。

 

北八ヶ岳らしい雪の小道が続いた。

 

 

そして、約10分。

 

あったー。

 

 

 

北横ヒュッテに辿り着いた。

 

 

実は、この写真は、今回ピラタスロープウェイに乗る前に撮った2枚の写真の次の3枚目の写真。
途中、写真を撮る余裕など全くなかった。
ここに掲載した風景の写真は翌日、帰る時に思い出して撮ったものだ。

良くぞ生きて辿り着いたものだ、と、帰宅してから猛反省した。

帰りに良く見たら、この尾根、積雪期はどこから登ってもたぶん問題なく尾根筋まで登れるような、そんな斜面の尾根だった。
このあと、はなママちゃんたちとも登ったが、みんな勝手に好きなルートで登ってちゃんと登れた。
下山も各自勝手に降りた。
無謀な山登りだったが、北横岳がそういう山で助かった。

 

 

 

 

「 お~~い! 」

 

 

「 あ、来た来たー。 おつかれー。 」

 

 


当時の北横ヒュッテは冬季開放のいい小屋だった。
気に入って、次の年のお正月は北横ヒュッテで迎えたのだった。

 

 

おしまい。

(あ、ぷーまま、そんなに危険なことばかりしたわけじゃないからねー。)

 

 

 

 

 

 

 

古い写真から・・・北横岳  2

体は腰より少し上まで雪に沈んでいる。
抜け出ようにも足が地に着かない。
周りはふかふか。

考えてみたら、背負ったリュックが雪面に乗っかっていたから止まったので、
荷物がなかったら頭までもぐったかもしれない。

雪崩のときもそうだというけれど、どうにか体を横にして、まさに泳ぐようにしてその雪の落とし穴をやっと脱出した。

 

それでも、まだ、危険だという気持ちは持っていなかった。
危険を認識するだけの知識を持っていなかったということなのかもしれない。

 

「一人だと、何をするのも大変だなあ。」と思いながら、見え隠れする赤や緑の目印を追って北横岳への尾根に続く斜面の基部に辿り着いた。

 

 

斜面は森になっていて、登り口を捜す斜面の基部は雪も深い。

深雪のなかをうろうろしたが、おそらくつづれ折に登るであろう登り口がわからない。

最初から、好天ではなかった空がだんだん低くなり、あたりは霧に包まれだした。
行きつ戻りつしても登り口がわからない。
目印のテープも一つも見えない。

初めて、これはいけない、とあせり始めた。

 

 

 

こんなになってからあせるのだから初心者というのはすごい。
いざというときは、戻ればいいや、と思っていた。
それまで、まだ、自分のトレースをたどればすぐに戻れると思っていたのだった。

その自信が崩れだしたのは、霧が濃くなってきたからだった。

振り返っても、自分がつけたはずのトレースがうすくなっている・・・

 

 
もうよそうか、と思ったそのとき、前方からスキー板をつけた数人のグループが向かってきた。
やったー!これで道がわかる。
彼らのふみ後をいけばいいんだ。
樹林帯の中ならトレースははっきりついているはずだ。

「こんにちわー。北横岳からですか??」
「こんにちわー。そうですよ。」
「雪、すごいですか??」
「そうでもないですよ。」
不安はいっぺんに吹き飛んだ。
彼らのトレースをたどると、登り口にすぐ辿り着いた。
上を見ると、赤いリボンがぶら下がっているのが見える。
「よし、あと1時間だ。」

 

 

体力はあったぷーまま、勢い込んで登り始めたのだった。

ところが・・・

 

 

 

 

 


ときどき、ホワイトアウトしてしまいそうな濃い霧が流れる。

 

すれ違ったグループは山スキーを履いていたので、トレースがあさく、彼らの痕はすぐに斜面を滑り落ちる雪に埋もれてしまった。
さあ、もうルートはわからない。

 

 

これではないかと思うルートを闇雲に登った。

 

 

振り返ると自分の歩いてきた痕だけが道になって見える。

また、つづく。 (えへへ) →古い写真から・・・北横岳  3 はこちらから。 

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年8月26日

古い写真から・・・北横岳  1

 

 

こんなに暑いと、こんな写真が見たくなる。

古ーい、冬山の写真。

 

 

 

 

八ヶ岳の一番北。
白樺湖を通り過ぎると、ピラタスロープウェイというのがある。
標高1771mの山麓駅から、2237mの山頂駅まで標高差466m・総延長2215mをたったの7分でつないでいる。
山頂駅は「坪庭」の入り口。

 

坪庭は溶岩がゴロゴロした亜高山帯の道で、冬はルートが雪の下に隠れているから気をつけなくてはいけない。

 

なぜ私だけ後から行ったのかもう覚えていない。
先に行っている3人を追いかけて朝新宿を出た。
もしかすると3人は八ヶ岳を縦走して最後に北横岳に着いたのかもしれない。
地図と山の本を見ると、山頂駅から待ち合わせの北横岳ヒュッテまではコースタイム1時間。
ゆっくり歩いても2時間あればつくだろう、と考えていた。
だからだろう。坪庭を歩き始めたのは昼過ぎだった。
山では夏でも午後2時には山小屋に着け、というのに、確か出発したのが1時ごろだったと思う。冬だというのに。

 

当然、冬山なのだから、装備はちゃんとしている。
ザックにはシュラフも食料もツウェルト(簡易テント)も調理用品も持っている。
もし、急に悪天になったり、迷ったりしてもそこでツウェルトを張って待てるだけのもの。

 

装備は持っていたにしても、山を舐めていたとしか言い様がない。
いくらコースタイムが短く、山小屋に仲間がいるはず、とはいえ、冬山の単独行。
初めてのコース。
出発が午後。

とにかく、無謀なことに、午後、私は一人で、初めてのピラタス利用北横岳に行ったのだった。

そのとき、ロープウェイを降りた登山者は私一人。ほかはスキーヤーばかり。
ロープウェイの下はスキーのいい山岳コースだった。(下のほうはゲレンデ)
スキーヤーと一緒にのるロープウェイは居心地が悪かった。
一般観光客と一緒のバスなんかも余り居心地がよくない。
登山者は汚かったり臭かったりするやつが多かったからなぁ。
なんだかスキーヤーのほうがものすごく洗練されて見えるんだよね。
ぷーままは、山から帰るとテントまで水洗いして干していたくらい、臭いのが嫌いだったから
余計気になったのかもしれないけれど。

 

 

 

山頂駅を出るとそこは冬山の真っ只中。
家で調べてきた地図を思い浮かべて歩き始めた。

今考えると、実は内心緊張していたのだと思う。
ロープウェイに乗ってからの写真がないのだ。

 

しばらく平地を歩いて少し登り、また平らなところを進む。
いわゆる坪庭といわれるところには柵やロープが設けてあったりして迷いそうもなかった。
しばらく歩くと、左に赤いリボンが点々と結んであるのが目に入った。
冬山のために秋のうちにルートに赤いリボンを枝に結びつけたものだ。

ふみ跡もあったのでそこから坪庭のルートをはずれ、山(樹林帯)に向かって歩き始めた。
ほんの10mくらい歩いたところで、ずぶっと雪にもぐった。
もぐったつま先がまだ宙に浮いている。
本で読んだ、雪に隠れている溶岩のすき間にはまったのだ。

 

 

続く。(またまたぁ・・・) →古い写真から・・・北横岳  2 はこちらからへ。
 

 

 

 

 

 

 

 

2010年8月7日

途中から読む方に・・・

「古い写真から・・・北岳花見山行・・恐怖のショウジョウバカマ」をここから読み始めた方へ。

ぜひ一番下の1からお読み下さい。→こちら

上から読むと面白さが半減します。

 

 

 

 

 

 

2010年8月6日

古い写真から・・・北岳花見山行・・恐怖のショウジョウバカマ 5

やれやれ、二日分の話が済んだ。

( あ、これから「恐怖のショウジョウバカマ」を読まれる方へ。 1から読んでください。こっちからではつまらないよ。)
1はこちらから
 

 

 

遭難騒ぎで飲まず食わずの3人も帰ってきて、この日のことを聞きながら晩御飯を食べました。
なにを食べたんでしょうねえ。
ラーメンとかうどんとか、そういったものだったのでしょう。
普段から山登り中は粗食に耐えている仲間でしたから、食べられれば良かったんだと思います。

 

 

翌朝。
ぷーままの誕生日です。
大学2年から、誕生日にはキタダケソウを見に行くことにしていました。
親父さんたちが来ないと帰れません。

学生と自由業とそんな集まりだったんだと思います。
「来ないから帰れない」・・そんな理由で小屋にとどまっていました。

朝ごはんを食べ終わった頃、バタバタバタバタ・・・・  ヘリの音がし始めました。

来た!!

荷物をぶら下げたヘリが上ってきます。
なれているやつが、荷物をはずしました。

ヘリからは親父さんが降りてきました。

「 ほぉ。。待っていてくれたかー?? 」

プロパンガス、缶の飲み物、米、玉ねぎなどの野菜、缶詰、酒、タバコ、マットレス・・・
次々到着します。

 

ヘリのローターの廻った下での作業はけっこう大変でした。

 

しかし、ヘリは偉大です。

私達バイト仲間で一番速かった子は朝7時頃に小屋を出て広河原まで行き、広河原でご飯を食べさせてもらってから、たくさんの荷物を受け取って両手にすいかをぶら下げてお昼ちょっとには戻ってきました。
偶然そのときに登山していた人たちは、ものすごい荷物を担いだ彼に風のように追い抜かれて歩く気をなくしたといっていました。
もう一人、速かった子は、稜線小屋から農鳥岳まで1時間を切る速さでした。

でも、私達はそんなに早くは登れません。一番体力が乗っていたころでも私は5時間くらいかかっていたように思います。
13年前に3人の子ども達をつれて登ったときなど、9時間くらいかかったと記憶しています。

そこをヘリはあの荷物をぶら下げて広河原から10分かからずに飛んでくるのです。
イヤになってしまいます。

 

 

 

5人も手伝いがいたのですから片付けは速かったと思いますよ。

開放していない小屋の中の荷物も広げて、いよいよ夏山シーズンの始まりです。

 

とたんに辺りがアットホームな雰囲気に見えてきた、そんな誕生日の午後でした。

 


(なにが写っちゃったんだろう、恥ずかしい・・) もう7月になろうというのに小屋の裏には雪。
涼しいを通り越して、朝晩は寒いです。

 


ボーコンの頭の方向です。
向こうに見えるのは秩父の山々です。

 

 


富士山に笠がかかっています。さすがに梅雨の真っ只中です。

 

 

 


この写真は前にも載せたことがあります。この日の夜の写真です。
もうずいぶん前に亡くなられてしまった森本さんと清水さんの二人の親父さん。

お酒を飲みながら、昨日の遭難救助の話をしたりしました。

「危ないときに山に登るな」、と親父さんたちにいわれました。
遭難事故が起きるような天候のときはオレ達だって危険だから、悪いけど遭難者(死者)は粗朶(そだ・・・細い木の枝を集めた物)できっちり巻いて谷から落とすんだ。でも、知り合いだとそうは出来ないから危険を押して担いで下りることになる。
こっちも危なくてしょうがないから危険なときは山に入るな、という話でした。

 

 

この小屋には3人の親父さんがいたのですが、山梨にもう一人父親がいるような、いい親父さんたちでした。

 

 

翌朝、親父さんたちに「じゃあ、また来月ね。」と別れを告げて山を下りました。


これは帰る私達を親父さんたちの中のボス格の今朝光(けさみつ)さんが撮ってくれたようですね。
珍しくカメラマンのYさんが写っています。
いつも写す側にいる人って、カメラを向けられると照れちゃうのですが、Yさんも照れまくっていてかわいい。

 

 

 


4日目にしてやっと山頂を踏みました。

梅雨のさなかにしてはまあまあのいいお天気でした。


中白根から間の岳。下の雪渓の手前から3つ目のところに稜線小屋があります。


北岳山頂から見る千丈岳は、大きすぎて近すぎて35mmのレンズでは全容を捉えることが出来ませんでした。

 

でも、

間ノ岳から脳鳥岳にかけての稜線や尾根筋が雲の間から見え隠れして、それはきれいでした。

 

 

 

お花畑には、白い花、黄色い花、紫の花、薄紅の花たくさんの花が風に揺れていました。

 

 

イワヒバリが鳴き、

 

 

まだ、白い冬羽が残るライチョウが死んだみたいな様子で日向ぼっこをしていました。

 

 

 

 

八本歯のコル、ここを左に下りると、下界への道が始まります。

 

 

上部二股。遭難者達は、向こうの雪渓を登っていったのでしょう。

 

 

あの辺りにしか咲かないというミヤマハナシノブ。

その珍しい白花株。

 

 

 

周りに咲く花がだんだん低山にもある植物に変わっていくのを眺めながら、
でも、こんな生活が永遠に続くと思っていた若き日のぷーままでした。

 

 

 

 

 

 

 

古い写真から・・・北岳花見山行・・恐怖のショウジョウバカマ 4

Yさんの緊張した顔がだんだん近づき、声の届く範囲になりました。

「どうしたのー??」

 

「遭難だよ。」

 

心臓ひっくり返りそうでした。

 

 

え??
だれが???

どうしたの??
どうなったのよ????

Yさんでないことだけは確かだわ。
だれ???
え???

 

 

 

とても長い時間に感じました。
ずっと見えていたYさんとやっと合流。

「だれが、どうしたの。」
「いやね。僕達じゃないんだけど。」

 

 

もう!
へたり込みそうでしたよ。

小屋へ戻りながらの道々聞いた話は・・・

 

バットレス基部への巻き道をトラバースしていたときに、ちょっと下のほうにショウジョウバカマがきれいに咲いていたのだそうです。
「ほら、あそこにきれいなショウジョウバカマが・・」
3人がそちらを向いたときに、どこからともなく石が墜ちたのだそうです。

山で石が落ちるのを見たときは、「ラーク」と大きな声で叫びます。
落石の「らく」です。
下の人に注意を促すのが目的です。

彼らも大きな声で「ラーク」と叫びました。

すると・・・
なんと石の落ちて行った先の方から、小さく「ぉーぃ」と呼ぶ声が聞こえたのです。
「ぉーぃ」「助けてくれー」声は続きました。

 

助けてくれという声を聞いて、先に行くわけにはいきません。

気をつけて谷を下りました。
すると・・・

 

男性が二人、一人は元気なのですが、一人は全く動けません。

話を聞くと、

 

二人は私達と同じ八本歯のコルを目指していたのですが、この年の残雪の多さに雪渓のどの筋を登るのかを誤り、バットレスに向かう雪渓を登ってしまったのです。
バットレス沢は最後は氷壁に近いです。
二人もさすがにこれはおかしいと気付きました。

戻ることにしたのですが、スキー場を思い浮かべてください。
登るときは斜面の高低差は自分の身長を引いた分になりますが、下るときは身長を足したぶん高低差が増して感じるのです。
感じるだけでなく、靴で歩いていて恐怖を感じる斜面というのはかなりの傾斜を持っています。
二人は、恐怖からお互いにつなぎあおうとしました。
ところが、一般の縦走を目指す登山者ですからザイル(ロープ)などは持っていません。
目に付いたザックの口のひもを解き、お互いにつなぎあったようです。

下っていくうちに一人が転びました。
もう一人も引っ張られて転び、ひもでつながっているので二人は雪の斜面を滑り落ち、雪面から出ていた大きな岩に引っ張られたほうがぶつかり、最初に転んだ一人はその人にぶつかって止まりました。
先に岩にぶつかったほうが動けなくなりました。
そこで一晩過ごしたのだそうです。

 

夜が明けて、上からの「ラーク」の声に助けを求めたのでした。

 

Yさんは小屋に戻り、手当てに使えそうな物を物色して現場に戻りました。
とても痛がっているというので、薬箱から鎮痛剤を見つけました。
処方箋がなかったのですがそれを持っていきました。

途中で下山する登山者に、広河原から警察に連絡してもらうよう頼みました。
当時、山を降りたところにしか電話はありませんでした。
鎮痛剤を適当に(!)飲ませてから遭難者をシュラフに入れてザイルで固定し、3人で雪渓を滑らせて下りました。
「痛い、痛い」といっていた遭難者がそのうち、「痛くなくなった」と言ったというのですから鎮痛剤を飲ませすぎたのだと思います。

 

やっと雪渓を半分下ろしたあたりで、県警のヘリコプターが来てくれて、遭難者を吊り上げていきました。
3人はまた雪渓を登って、そのまま帰ってきました。

 

だって、ヘルメットが一つ無いだけではなく(これは代替品があったけれど)、遭難者といっしょにザイルを持っていかれてしまったのですもの。

3人はバットレスをやれませんでした。

ヘルメット無しで登るな、ということだったのでしょう。

 

 

遭難者は脊髄骨折で長く入院しましたが治ったそうです。
ザイルは新しい物を送ってくれました。

 

しばらくKRA(北岳稜線小屋アルバイト組合)では、ショウジョウバカマをみるとこの話になり、このときのことを「恐怖のショウジョウバカマ」と呼ぶ様になったのでした。

 

 

あらやだ、話に夢中になって写真を忘れたわ。


これが頂上下のお花畑です。


キタダケソウ。この花を見に来たのでした。

 

 

 

さて、こうして、嵐のような一日が過ぎ、でも親父さんたちはまだ登ってこないのでした。

つづく。

(ドキドキしないね。)  →「恐怖のショウジョウバカマ 5」はこちらから